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前田義寛の「めでぃあ交遊録」

2011年02月05日(土) 22:00

最近、知人の在日アメリカ人、C.Keenerさんから、「フェイスブック」を介してメッセージが入った。私の名前が彼の友人リストに実名登録されているからだ。フェイスブックという新しいネット上の交流サイトが話題になっていることは承知していたが、自分が利用者に連なってみると、興味がわいてくる。まだ見てはいないが映画「ソーシャル・ネットワーク」がゴールデン・グローブ賞に輝き日本でも公開され、『フェイスブック 若き天才の野望』が出版され(日経BP社)るなど、FBブーム状態にある。生みの親であるザッカーバーグの信念は「より透明な世界はより公正な世界をつくる」ということらしい。

インターネットの普及、とりわけツイッターの普及は社会の匿名性を加速したような気もしないでもない。このところ「タイガーマスク」なる匿名のランドセル寄付が話題になっているが、寄付の文化が成熟していない日本では匿名もやむをえない善意の表現法だろう。ネットや携帯では匿名発信が容易なためのマイナス事象もたくさん発生している。携帯メールで個人を誹謗するメールが中学生のいじめの道具にもなっていると聞く。それに比べて実名を基本とするフェイスブックが個人や社会の公正な情報交換の手段として定着すれば、匿名の隠れ蓑が生み出す隠避な情報空間を駆逐することにも繋がる。23日の日曜日、石原都知事はTV番組をハシゴしていたが、どこでも「今の子どもたちや学生を無気力にしたのは、インターネットと携帯だ」と切り捨て、それを助長しているのが大人と社会の「我慾」だと強調していたが、道具は使いようだ。まずは大人の情報リテラシー習熟度こそ問われる。

 

2011年01月20日(木) 04:00

「映像・音声が世界中で送受信可能な腕時計サイズの情報端末が実用化する」、「人間の脳でやっている情報処理を1チップでできるようになり、意識しないでインターネットやパソコンが使える。インターネットという言葉は消えている」。前者は科学技術庁(当時)技術予測、1997年)、後者は東大大学院情報処理研究科の江崎浩助教授(当時)の「インターネット新世紀」2001年)。

いずれも2011年実現の未来予測だ。政治の世界は一寸先は闇という文化だが、科学は論理の世界だから、さまざまな因子を分析することで未来を予測し構想することができる。竹野萬雪さんはかつて情報サービス産業界で活躍した人だが、31年前から「未来年表」を自作、年賀状として知人に送っている。「未来年表」は公開された未来予測、予知、予言あるいは占いなどから「物語性があり、かつ時代や年月を特定したもの」を時系列で並べる。竹野さんの関心は情報、コンピュータ・ネットワーク、ITなどがコアだが、「水不足のため戦争がはじまる」(『続・未来からの警告』2006年)、「中国・人類史上初のクローン人間が誕生する」(『22世紀から回顧する21世紀全史』2003年)といった話題も拾っている。すべて2011年の出来事という予測である。残念ながらここに取り上げた4つが、今年実現するとは思えない。そこは作者の竹野さん、「各項目の内容は虚実が混在しており、一般に実現性の保証はありません」と注釈に書いている。「乗り物の科学」(朝日新聞1月1日)の予測「2045年には東京―大阪を67分で結ぶ全線開業を目指す」あたりは、確定未来かも知れない。

 

2011年01月05日(水) 06:00

友人のデザイナー高浦威さんが亡くなった。高浦さんは三愛宣伝部のデザイナーを振り出しに、グラフィックデザイン一筋に生きた人だ。「グロット・クリフ」というサイパンの洞窟の名前をとったデザイン事務所を開いた時期もあった。

高浦さんのことで忘れがたいのは、写真家塚原琢哉さんとの出会いである。昭和42年から48年まで、私は季刊PR雑誌『学際』の編集人だった。ある日、高浦さんに「斬新な表紙を作りたい。いい写真家はいないだろうか」といったら、「六本木に面白い写真を制作する写真芸術家がいる」と、塚原さんを紹介してくれた。顔を見たら高校時代の知り合いだった。塚原さんは写真部、私は新聞部。だが当時はまったく交流はなかった。高浦さんにはとんでもないお願いをしたこともある。季刊PR雑誌『学際』創刊号(昭和42年12月)の表紙デザインを高浦さんに頼んだ。その版下を、あろうことか横須賀線の網棚に置き忘れたまま、紛失してしまった。モナリザをモチーフにしたオリジナルデザインである。編集者失格ではないか。私は高浦さんに頭を下げて同じデザインをもう一度制作してもらった。締め切り間際の醜態だったが、高浦さんは私の懇願をおおらかに聞いてくれた。高浦さんは、晩年、地域の合唱団に所属して歌っていた。誘われて池上本門寺のホールに聴きに行った。舞台には堂々とバリトンを歌う高浦さんの姿があった。ある日、高浦さんからCDが送られてきた。自作の童謡だった。